2 ライティング・エンジンとしてのワードプロセッサー
この章には何が書かれているのか?
書くことは存在すること
私たちは存在するだけで書いている
私たちはエクリチュールの共同世界に生きている
我々が存在するとは、テキストを書いていることにほかならない
「私はテキストを生産する。これすなわち、私が存在することにほかならない。そしてある程度まで、私は自分が生産するテキストそのものである」
手書き作家にとってのエクリチュールとの関係
そうした作家にとって、自分が自分の生産するテキストそのものであるという感覚がある
rashita.iconつまりこれは実存に関わってくる要素となる
アルフォンンス・ブダールは自身をエクリチュールの歩兵と呼び、さまざまな感覚や出来事を書き留める
エレーヌ・シクヌス(エレーヌ・シクスー)は、自分の書くテキストは自分の欲望の対象であり、あらゆるものが混ざり合った存在で、意志伝達を目的としていないと述べる
複数の作家が挙げられるが、全体として「書きながら自然と構造が生まれてくる」という流れ(プロセス)を重視している
以上の手書きのエクリチュールにこだわる作家の意見をまとめてみると、書くという作業を創造的な行為とみなし、分かりきった意識を前もって準備した構造に合わせて説明するのではなく、明確に意識化できていないことを書くという作業、すなわちエクリチュールによって意識化しようとしていることが分かる。さらに、一度書き上げた原稿を推敲して仕上げていく楽しみも強調している。
タイプライター的思考と手書きのエクリチュールの違い
手書きのエクリチュールでは
1. 曖昧な意識を表面に浮かべ(書く)
2. その断片を丹念に拾い集めて、納得いく形に構成する
3. 再びそれを書き直す
ということをする。
とにかく文章を綴り、それを切り刻み、再構成するという点ではタイプライター的思考と似ている
しかし
タイプライター的思考がテキストの断片を機械のように扱い、決まり切った手段で一つの構築物としてテキストを再構成するのに対し、手書きのエクリチュールでは、もっと自由に断片的なテキストがお互いに絡み合い、一つの大きなテキストへと統合されていくような感じ
タイプライター的思考では、何を伝えるのかが「書く」前に明確になっている
あとはどう伝えるかが問題
デリダは、ソシュール、フッサール、 ヤコブソン、ストロースなどの考えを批判した
ロゴスを現前させるという前提
伝えることがあり、それを伝達するするために考案される体系
デリダによれば、そうしたものはない。私たちの目の前にあるのはロゴスの痕跡だけ。
痕跡とはテクスト
シクスス「書いていないときの私は死んだも同然です」
「書くこと」が存在で、書かれたものはその行為を行った痕跡にほかならない
手書きの書き手は、書くことの中で、自分の存在を確かめている。
書く楽しみを味わい、存在する自信を持つ
タイプライターのエクリチュールでは、前もって考えたことを伝達するだけの単純な体験になる
手書きのエクリチュールでは、より複雑で興味深い作業になる
手書きのエクリチュールは、ヨーロッパの主流の哲学では異端
ヨーロッパの主流の哲学では、話し言葉(パロール)を紙の上に固定されたものがエクリチュールとされる
パロールを離れて、エクリチュールそれ自身で意味する世界は無視され、パロールの代理、あるいは不完全な転写としか扱われない
プラトン(プラトニズム)の視点では、音声(話すこと)が生命や魂を持つ完全な世界で、書き言葉はそれを不完全に固定化させたものでしかない(ソクラテスは書き言葉を嫌った、という話題) デリダ『グラマトロジーについて』にあるルソーの言葉「エクリチュールは場ロールの代理でしかない」
タイプライター以前の手書きのエクリチュールは、まさにパロールの代理でしかなかった
タイプライター的な思考は、そうした状況を乗り越えるための試みであった
しかし、「部分と全体」という捉え型において、「全体」がすでにあるものだと規定されているならば、ロゴス現前と同じ過ちになる
形而上学を乗り越える現象学が、奇妙に安定した世界の虚構性へとたどり着くことも似たような構図
それもデリダは批判した
人工知能
人工知能をつくろうというばあ、知能とは何かを定義しようとする
人間の行動のなかで、どうしてそうやっているかわからないものが知能
物書きの創造性と同じ
rashita.iconChatGPTなどの生成AIも、結局どうしてそうなっているのかがわからない点で知能と通じるものがあるとは言えそう
もしわかるならば、それは知識ではなく技法
その意味で、人間の知能を説明する普遍的な概念(ロゴス)はない
理解された途端、技法の集積に解体されてしまう
エキスパート・システムとの相似
エキスパート・システム
一連の判断の連結として構想・実装された
rashita.iconしかし使い物にはならなかった。現在の生成AIとは大きく異なっている
ミンスキーの仮説
人間が自然に深く考えずに行っている行動も、さまざまな行動の複雑な組み合わせで成り立っている
rashita.iconまず「深く考えずに」という点が、思考や知能とどう関係するのかという点が気になる
rashita.icon次に「複雑な組み合わせ」とはどのようなものなのか(単なる連結とは違うのか)が気になる
人間の精神は一つの構造を持つ機械ではなく、さまざまな部分(エージェント)からなる社会
精神の世界
部分は精神を持たないが、それらが組み合わさると精神が生まれる
rashita.icon創発現象
rashita.icon精神と知能が意味しているものは同じなのか違うのか
この捉え方であれば、特定の技能の集積に過ぎないものはも、外からは知能に見える
アラン・ガーナムはこの考え方に批判的
「積み木」をするときの動作をエージェントの組み合わせてして図示したもの
https://scrapbox.io/files/65d59653e89ed50024619bc7.jpeg
デリダ『グラマトロジーについて』第一章「本の終わりとライティングの始まり」
ギリシャ哲学は永遠普遍の超越的存在を認めていた
それがイデアであり、神でもある
デリダにとって「本」はあまりに完全であるがゆえに閉じた存在だった
それは死の世界である
「本」から「テキスト」への移行
本の死→神の死
書くこと、エクリチュールに生きることは、本は幻想であると感じられる体験
ソクラテスは書かなかったからこそ、その虚構性に築けなかった
rashita.iconむしろこれはプラトンだろう。ソクラテスは書かれたものが死んだものであると述べていたのだから
現前の不可能性
書かれたテキストがイデアを表現できないことを認識すること
むしろ書かれたテキストはさまざまに「読む」ことができる
(おそらく)デリダ『グラマトロジーについて』第一章「本の終わりとライティングの始まり」より
神学百科全書の中でのように、あらゆるものが整然と区別され、整理され、あらゆるものが、それぞれ、あるべきところにあり、しかも全体の中心に神があり、全てがこの中心をめぐって見事な存在秩序をなす。そういう世界像を「本」という。「本」は自足的であり体系的であって、自己自身の中で完結している。そんな存在のなかに、人は生きてきた。少なくとも、そう信じ込んできた。だが今は「テクスト」の時代。本が閉じられ、テクストが開かれる。
rashita.iconロラン・バルトの「作者の死」を連想する イデアというものがあり、テキストはそれを指示している(意味のくみ取りは正解のただ一つしかないという考え方)の排除
電子メディアとの関係性
目的に合わせて機械をプログラムして人間の活動と代替しようとする
=>エクリチュールを形式的な記号の連鎖と考え、意味を考えないで処理するワードプロセッサー
ジョン・マッカーシー(人工知能という言葉の生みの親)は、数字の代わりにアルファベットを処理させるというアイデア 重要な部分
人間のエクリチュールが万年漬を使ったり、タイプライターを使ったりすることで物理的な制約を受け、充分にその本質を追求できない状態を解決する、自由なエクリチュールを生成する道具としてワードプロセッサーをとらえてみると面白い。デリダのいうエクリチュールは人間が存在することそのものであるから、その状態の中で生まれる記号連鎖を文字テキストの痕跡として残す装置としてワードプロセッサーを考えてみるのだ。
ライティング・エンジンとしてのワードプロセッサー
エクリチュールを行うエイジェンシーをWRINTGと名づけその内実を検討する
書くという神秘的な作業を技法のレベルに分解したものとしてアメリカでよく見かける文章読本がある
rashita.icon『アメリカ哲学入門』などが参考になりそう
それはWRINTGというエイジェンシーを考える上でも参考になるだろう
詳しい検討は次章よりはじまる
この章について
rashita.icon全体的にデリダの観点が多く採用されていました。
すでに決定された「書くこと」に向けて部品を集めていく、という書き方とは違う書き方の価値が確認された章だったと言えそうです。
TsutomuZ.icon 「書くこと」に向けて部品を集めていく、という書き方とは違う書き方=タイプライターのエクリチュール という理解で良いですか?
rashita.icon少し整理してみます。
まず、著者(あるいはデリダ)にとっての「手書きのエクリチュール」は単に手書きすることだけを意味しているわけではありません。
西洋主流の考え方は、手書きというのは音声を転写したものでしかなく、パロールの劣化でしかない。
パロールという本物(この感覚はイデアに通じます)があり、それをいかに再現するのかだけが問われた。その意味で、手書きしながら何かが新しく生成されるような複雑なものにはならない。もっと言えば、そこには「手書きならではの感覚・経験」は生まれない。
著者が「手書きのエクリチュール」と呼んでいるのは、上記のようなものではない「手書き」です。手書きしているときに(それ以外では)生まれえない体験・経験を生じさせるものとして「手書きのエクリチュール」は位置づけられています。
で、次にタイプライター的思考。
タイプライター的思考は、上記のような「パロールの劣化として手書き」という考え方を打破するものとして模索された。そのような芸術的活動の数々が第一章で確認されました。
しかし、著者によればそうした模索は十分とは言えなかった。なぜならば、そうして書くときにおいても、「すでに決定された書くこと(内容)」というものが存在して、それを表すために部品の組み換えが行われているから。つまり、以下のような構造的相似があると著者は睨んでいます。
「すでに決定された書くこと(内容)」というものが存在して、それを表すために部品の組み換えが行われている
パロールという本物(この感覚はイデアに通じます)があり、それをいかに再現するのかだけが問われた
片方は、パロールという本物があり、それをいかにうまく再現するかが問われ、もう片方は、頭の中にすでに存在している「書くこと」があり、それをいかにうまく表現するかが問われる。そうした類似性です。
よって、タイプライターのエクリチュールは、西洋主流の手書きとは違うタイプの書き方を目指したものの、しかし、すでに存在している「全体」に向けて「部品/部分」を集めていくという点で、超克したはずの対象と同じ構造的問題を抱えていると主張されています。
その意味で、著者が問題視するタイプライターのエクリチュールは、「すでに決定された「書くこと」に向けて部品を集めていく」という書き方だと言えると思います。
むしろ、そうした旧来的なものとは決別しようというベクトルを有していたはずなのに、結局そこから抜け出せ切れていない(rashita.icon風に言えば、イデアの重力に捕らわれてしまっている)手法だったのでしょう。
で、西洋主流のパロールの劣化としての手書きはだめ、タイプライターもダメ、だったらワードプロセッサーはどうか、ということをここまでの理解を踏まえて検討を進めるのが次の章だと予想しています。
補足しておくと、『作家の仕事部屋』で紹介される手書きの作家たちは、全体が見えていないうちに書き始め、書き進めながら考えて、書き終え。そうしたものを推敲しながら、さらに内容を発展・整備していくというスタイルだと位置づけられていて、それこそ著者が向かおうとしている「あらかじめ書くことを決めないで書く」という体験をもたらすものだと目されています。
そうした書き方と、ワードプロセッサーを使った書き方がどう近接されるのだろうな、という楽しみを持って次章を読むつもりです。
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